読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ぐだぐだわーくす

意識低い系目標を掲げて達成をもくろむBLOG

物は良いのに売れないと嘆く前に、率直な感動や本能に根差す感性訴求を実践すべき

f:id:dacs:20170325002853j:plain:w760

技術で製品を説明するのは間違い

物が良いものなのに売れないと嘆く人は沢山います。また、それを見てそうじゃないことと直観的に分かる人も何故か技術論やスペックの話に引きずられがちです。

これを肌感覚で本当に分かっている人ってきっと物凄く少ないことの証左でしょう。

ジョブズは「日本をなんとかしてくれ」と僕に言った - 日経トレンディネットより引用:


 ここでいきなり「これは4GバイトのHDDを積んでいて」などと切り出してはいけない。日本の多くのメーカーが失敗しがちなのですが、大切なのはまず感動してもらうこと。製品を購入する人は技術に「すごい」と言うわけではありません。「こんなことができるんだ」と知り、自分が使っているシーンを想像して、その姿がいいなと思ったときに初めて欲しいなと思います。技術の説明は、「それをどうやって実現しているの」と興味を持った人に、その後、伝えればいい。

この伝える順序、優先順位は売る側が理解できていないだけではなく、買う側も実は理解出来ていないのです。
f:id:dacs:20170325081519p:plain

技術や理屈がまず最初に拠って立つものと考える理由は恐らく、技術や理屈というものが価値が高いものだという思い込みがあるからです。勘違いも大概にしないと害悪です。

一旦そういう価値観にハマってしまうと、人間が元々持っている本能や欲求というものを凄く低く見てしまいます。本能や欲求は動物的で程度が低いものと考え、自分が本能や欲求に振り回される動物的な存在であることを許容出来なくなってしまうのです。

本能に素直な人は直観力を伸ばす

現実問題、人間はどこまでいっても動物ですから、本能の奴隷になることは回避できません。積極的に本能に従うことが出来る人は直観力が冴えわたってトレンドや訴求ポイントを明確に見通すことが出来ます。

一方理屈に傾倒する人はどんどん直観力が衰えていき、どんどんズレたことを大事にするようになります。技術や理屈っていうものが信仰の対象か心のよりどころにしている雰囲気さえあります。
f:id:dacs:20170325082025p:plain
先の引用と同じ前刀さんの別インタビュー記事でもこのような記載がありました。

スティーブ・ジョブズを通して学ぶ「感性訴求」 アカデミーヒルズより引用:


Momentum、Demand、Desireというプロセスは、何かを動かしていくときや、人にものを伝えるときにすごく重要になります。人に何かを伝えるときには、まずは「共感」を得ることです。共感を得たら、聞いた人に自分のこととして「想像」してもらうこと。想像してもらった後は「自発」的に行動してもらうこと。「共感」「想像」「自発」という3つのプロセスを、私はいつも大切にしています。

マーケッターが市場での受容のされ方を見るときに女性や子どもをサンプリングするのはそこを重視し、大人の男性の意見は参考にしないといったようなことをよく耳にします。

更に言えば、物に溢れかえった日本国内より、流通する物品の数や種類が少ない国の人たちの方がより直観力が高い反応を期待できるかもしれません。

実のところこの観点自体珍しいものではない

WASEDA研究特区―プロジェクト研究最前線―:研究力:教育×WASEDA ONLINEより引用:


「多かれ少なかれどんな商品でも、客観的な物理特性や原価価値だけでは測り切れない、消費者の主観的で感性的な評価に依存する要素を持っています。その意味で、すべての商品は“感性商品”であり、すべてのマーケティングは“感性マーケティング”であると、我々は捉えてきました」(長沢教授)

 感性という言葉は、じつは日本から世界へ発信されたものだ。自動車メーカー、マツダの山本社長(当時)が、1986年に米国で「日本の自動車開発を成功に導いたのは、日本独自の感性エンジニアリング(kansei engineering)である」という趣旨の講演を行ったことが契機となった。「感性」は極めて日本的な概念であると評価され、それ以降「kansei」として海外でも使われてきた。

 「しかし残念ながら、感性という概念の意味定義についてはあまり統一されておらず、研究グループや研究者ごとに、微妙に違う定義を用いてきました。私は、感性とは人と対象とのあいだの、感覚―知覚―認知―感情―表現までを含む統合的・包括的な概念と定義しています。感性マーケティング、感性評価の研究に長く携わってきましたが、経験的にこれが最も多くの方々が納得できる定義なのです」(長沢教授)

わざわざAppleを引き合いに出すまでもなく、この手の概念は遥か昔から日本発祥のものとしてあるのですがどうも上手く活用されていないだけなのです。

そうであるにも関わらず実入りのある部分を海外で実用レベルに展開されていったのです。そういった背景も忘れ、日本人が逆輸入された理屈の欠片を有難がるような羽目になっているのは実に皮肉な状況です。

技術や理屈に依存せず

以下はマイクロソフトの日本法人を立ち上げた古川享氏の談話の一部です。

ASCII.jp:IT再生の「のろし」を上げよ!──シリコンバレーに切り込んだ八人の侍 (2/4)より引用:


 「スティーブ・ジョブズもビル・ゲイツも、技術者としては大したことはない。だが、彼らは人からものを聞く天才であり、いいものを見極める眼力を持つ。さらに2人とも人を褒めることにかけては天才」だという。


 ビル・ゲイツは特に気になることがあれば、すぐにその場で聞くため、「一緒に秋葉原を歩くと、『あれはなんだ』、『これはなんだ』と聞かれ続けて大変」だという。

彼らはその実績を以て知られ畏敬される存在です。

ですが、彼ら自身が元々持っている技術や能力に依存するのではなく、情報を見極める直観力を持ち、それを強化し検証をかけるための情報収集能力という強力なインプット能力を持っていました。
f:id:dacs:20170325083012p:plain
そのインプットがあったうえでの魅力的な製品やサービスの構築、インプットに根差す率直な感動や本能に根差す感性訴求をしていました。決して、その逆では無いのです。

既出で何度も見た話と思うかもしれないけれど

確かにこの手の話って言うのは、それこそ何度も何度も何度もあちらこちらで言われ尽くしています。そして評論家や評論家然となった一般人が訳知り顔で既出過ぎると指摘するのです。

それだというのに何の改善もされず何度も間違い続けるのです。何故か技術や理屈がまず最初にあって、それによって感動や欲望が生まれるという逆様な理屈が多勢を占めて罷り通ったりするのです。不思議ですね。

本能の奴隷となるのは必然だけれど、役にも立たない理屈の奴隷に喜んでなるのはどこか致命的なところで進む道を間違え続けているような気がしてなりません。