ぐだぐだわーくす

意識低い系目標と面白アンテナを掲げて世界征服をもくろむBLOG。我を崇めよ(*‘ω‘ *)

都庁の揺れに思う!みんな一緒が求められるし、求めてしまうのは何故だろう?

f:id:dacs:20170813071350p:plain:w760

こんにちは、基本一匹狼、一羽アヒルのDACです。

今回は特定の枠取りや仲間内に同調する圧力のお話です。まあ、ダラダラしたお話になります。

都庁がにわかに揺れはじめた

都庁が揺れている。都議選で自民党が惨敗で、どこの馬の骨とも分からない都民ファーストの会が第一党になったというのもあるのかもと一瞬思った。メディアは何かと激震などという言葉が大好きなのだ。

しかし、今回は物理的な揺れである。もし政治が激震の場合、一面トップ近くの記事になるものだ。このネタは毎日新聞の地方面「東京」のちっちゃい枠コラム「記者のひとりごと/都庁舎 揺れの正体/東京」である。おおごとと言うほどのものではなく、所感的な物だ。とはいえ、小生はこういう枠記事やベタ記事も好きなのだ。

さて、記事ではこう始まる。


都幹部の執務室で話していると、庁舎が揺れ、きしむような音が聞こえてきた。地震かと身構える私に幹部は苦笑して告げた。「みんな一斉に跳ぶと揺れちゃって」
振動の正体は、ラジオ体操だった。7月24日に始まった取り組みで、午後2時55分からラジオ体操の音楽が流れると、職員たちが机の脇で一斉に体を動かし始める。
「なーんだ」である。日本人のDNAに刻み込まれている。都民、国民が一つになれる」というツッコミ待ちとしか思えない小池都知事の台詞には各メディアもその読者も素直にツッコミを入れたものだった。当然かけ声だけで済む訳ではなく7/24から9/6まで都庁では一斉ラジオ体操を実施しているそうである。

東京都の職員数は16万人強だが、都庁という建物の中で業務に取り組む職員がいかほどの人数だろうか?あの大きさだから決して少なくはないだろう。そのうちどれだけの職員が一斉ラジオ体操実施となっているかも与り知るところでは無いが、同期して動いた場合はなかなかのエネルギー量になるのだろう。揺れると言われれば、少し眉に唾しつつも納得してしまう。

同調圧力に感じる押しつけがましさと同調圧力

記者は記事をこうしめている。


気分転換になる人はいるだろう。とはいえ予想以上の物音に、同じ体操を促される押しつけがましさと同調圧力の息苦しさを感じた。都の作戦通り進めば、同じ光景が庁外でも繰り広げられる。体操や東京五輪の機運醸成は、こうしてお上が迫るものなのだろうか。
建物が揺れるほどの同調に心と身体が一つになるという捉え方もある。確かにラジオ体操とはそういうものだった。

子どもの夏休みの一イベントとしての集合しての町内会など主催のラジオ体操、民間企業の業務前のラジオ体操には、色々な意味合いがある。準備運動、普段から運動しない人への習慣づけ、そして一斉運動による協働意識の醸成だ。

その中で協働意識を美化して、押しつけてくる同調圧力には小生もあまりいい思いを持たない。

流石はファーストと言うだけのことはある

ラジオ体操は別に日本の発明という物でもない。オリジナルはアメリカにあった。


そんなラジオ体操を日本で最初に始めたのは、かつての逓信省(郵便や通信を所管する省庁。現在の総務省、日本郵政、NTTの前身)でした。国営の簡易保険事業の一環として、1928年に「国民保健体操」という名前で制定し、東京中央放送局で放送を始めました。翌1929年には、ラジオ体操が全国で放送されるようになったそうです。
この国民保健体操は、逓信省簡易保険局が、海外の保険事業を視察した際、米国でメトロポリタンライフ生命保険会社(メットライフ)が行っていた、ラジオ放送による健康体操「メトロポリタンライフ ヘルス エクササイズ(Metropolitan Life Health Exercise)」を参考にしたと言われています。

DNAに刻まれていると言われても日本でのラジオ体操の始まりは1951年なので63年間、日本でのルーツに遡ると1928年なので89年、ルーツはメトロポリタンだそうだ。せいぜい3-4世代といったところか。

それでDNAに刻まれているのだから随分と小池さんの進化が早い。まるでファストフードみたい。便利で早くて美味しいのかもしれないけれど底が浅い。流石ファーストというだけのことはあると誠にくだらない嫌みも言いたくなる。

ラジオ体操なんてやだなあ…と口にしたら「お前に日本人のDNAは無いのだな」という論理に繋がるのだけれど、そもそもそんなヘンテコなものは存在しない。せいぜいあって習慣づけなのだし、何かと大げさにぶち上げるのは程々にするのが良いだろう。いい加減国民も安倍ちゃんのかけ声ありきに飽きてきたのだし、もっと身のあることに手をつけるのが良いだろう。

そもそも東京オリンピックやる必要あるの?

「何を今更」というなかれ。なんのためにオリンピックを東京でやらなければいけないのか、いまだによくわからない。

先日、次と更に次の夏期オリンピック開催都市が決まった。2024年がパリ、2028年ロサンジェルスだ。「なんで一度に二つ決めるの?」と言う疑問が沸くのももっともだが、これは想像に難くない。もう開催したいという立候補都市があまりないのだ。

東京、パリ、ロサンゼルス、全て過去にオリンピックを開催したことのある都市だ。ロサンゼルスは3回、東京とパリは2回だ。もし、他に手を挙げる新興国があるなら、新味を加える意味でもそちらが優先されるべきだろう。実際東京が選ばれたときの対抗候補はトルコのイスタンブール、スペインのマドリードがあったが、次期に関してはパリとロサンゼルスくらいしか手を挙げなかった。結果、両方が採用されることになった。

オリンピックはよくインバウンド需要による景気効果を期待される。国威発揚というのもある。実際前の東京オリンピックはそういう観点で大成功したと言えるから、あの活況を二度三度という期待もあるのは分からないでもない。

しかし、今は2017年であの頃とは全く情勢が違う。上がり基調でイケイケで先進国に食い込もうとしていたあの頃の日本と停滞して実質的に後進国化してしまった今の日本は決して一緒じゃない。

それにオリンピックそのものも変わってしまった。スポーツの祭典がお金のなる木みたいに扱われている。「2020年東京五輪の経済効果を1984年以降の開催国から見る 財政規律と国民意識変化が経済効果を最大化する WEDGE Infinity(ウェッジ)」みたいな話は何かと取り上げられるが、本当に効果があるのだろうか?競技場施設にしても「さあ、地獄のオリンピック跡地めぐりを始めよう。 - Everyone says I love you !」みたいにならない勝算はどれだけあるのだろう?

同調圧力を保持しつつ個性と言い出す人の不思議

話を同調圧力に戻そう。

周囲を見てて不思議に思うことが多い。多くの人は「自分のやることは自分で選択したい」「他の誰かから決めつけられたくは無い」ということを口にする。特に自分が主張したことに異論や反論を投げかけられるとそういう反応を返しがちだ。

しかし、そういう人が本当に自分なりを持っているのかは大いに疑問だ。その反応自体テンプレート的というのもある。ただ、それ以上に特定の仲間内、所属するグループなり組織なりというのが固定化しているのが容易に見て取れるというのが大きい。そのお仲間グループの中でどうたち振る舞うかということに時間をかけ、手間暇をかけている。

自分の考えや意見を大事にするというのであれば、そんなものは糞食らえな筈だろう。狭い特定の範囲でしか情報を出し入れしないなら、当然流通している情報もたかが知れている。新味はあるにしても傾向は限られてしまう。そんな不自由な中で自由だの自分の考えだの言われてもちゃんちゃらおかしくて、へそが茶を沸かしてしまう。

日本人の国民性と言えばある程度は納得できる。それこそ戦時中はおろか、江戸時代や戦国時代に遡ってみても衆庶というものは長いものに巻かれ、隣の家の箸の上げ下げすら気にするようなところはあった。その意味では小池さんのDNAに刻まれているも的外れでは無いだろう。

WWWのような世界に繋がり、異質に繋がるせっかくの機会も、そういう精神性が結局はたこつぼ的な分断を良しとする人達によって意味を成さないものに変質しつつある。日本は特にその傾向が強い。その割に本人達は、リベラルで自由で創発的と思い込んでいる節もあるし、本当に不思議だ。

一体何をしにWEBに来たんだろうと思うことしきりだが、今はそういう人の方が圧倒的多数を占めている。喧嘩を売るにも多勢に無勢。金持ち喧嘩せず、小生は貧乏人だが負ける喧嘩は三十六計決め込むのを最善とするのはこれまたDNAに刻まれている日本人的な処世術に沿って面従腹背でサバイブするのだ。

終わりに

「結局何の話をしたかったの?」そう言われると言葉に詰まる。

ただまあ、日本における意思決定というのはことほどさようにいい加減な物だと普段から思う。自由だ、自分だという言葉を使うのは誰もが大好きで垂れ流すけれど、本当にそういった気構えがある人にはなかなか出会うことが無い。いないわけでは無いけれどとてもとても少ないのだ。みんな一緒が求められるし、求めてしまう。

その結果、愚痴や言い訳や開き直りはするのだけれど、結局大きな声で何かを言い出す人がいればなんとなくそれにぶら下がってしまう。言い出した人も自分が言い出したことを忘れてしまって言葉や行動だけが残って行動選択に繋げてしまう。「空気の研究」を山本七平が書いてからかなりの時間が経つし、「バカの壁」を養老孟司が書いてからも一定の時を経た。でも、同調圧力や分断化の流れは更に悪化の一途を辿っている。

「個人としてどう思うか、どう考えるか」に真面目に取り込んだとき、こういった異常さは殊更に見えてくるだろう。出来れば疑問や違和感を持って一匹狼でも生きられる人(勿論普段は仲間と仲良くしつつも決して同質化しない)が増えて、今生のうちにより多く言葉を交わすことが出来れば良いなと思う。