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不確定な世の中へのいびつな適応と孫子のあり方に思うこと

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こんにちは、DACです。

今回は孫子の記事を読んで感じたことを少し書いてみます。

ネタ元

特集ワイド 経営者が学ぶ孫子 極意「勝つよりも負けない」 毎日新聞2017年9月13日 東京夕刊

概要

  • 「迂直の計」。わざと迂回して敵を安心させ、先に到着する戦法がよいという教え。ANAホールディング社長片野坂真哉氏の『安全と品質の総点検』を競合相手との競争が激化する中、底堅い力を付けるべく内部統制に力点を置き腰を据えて態勢を整え、いずれ攻めに転じようという姿勢として指摘
  • 孫子が今、幅広い世代に読まれている背景は、「たくさんのライバルがひしめく中、どうしたら賢く生き残れるかを考えている。今の時代状況にあっている」点にあるとする。立派な人格を作ろうとする他の儒家の教えに比べ、本当の戦い方を指南する点で実践的で現代向きとの指摘もある
  • 従来はおじさんのものとされた孫子は女性にも広く読まれるようになった。女性も積極的に社会参加するようになり、競争に巻き込まれてきたことが一つの背景にあるようだと分析する
  • 戦いの書でありながら、一番いいのは『戦わないことだ』と言っている点も魅力の一つとされる。「百戦百勝は善の善なるものにあらず」として、100回戦ってすべて勝つことは決してよいことではなく、「戦わずして勝つ」ことこそ最善の方法としている。その心は「目の前の戦いに勝っても、消耗して力を失えば、本当の勝利とはいえない。だからこそ、戦わずにすむ道を探れ」ということ

小生の所感

「ああ、なるほど。確かにな」そう納得してしまった。我ながら単純な奴である。

不確定な世の中へのいびつな適応に思うこと

世の中は色々複雑な社会情勢があり先行きが見通せない。そういう状況にあって多くの人が不確定な状況に耐えられず、何かしら落ち着いた答えを求める。つまり、これという解答、こうあるべきを決めつけてしまうのだ。決断は大事なことだ。いつまでもああでもないこうでもないをやって物事を決められないのは無責任な話だ。

しかし、その決断が本当に絶対の正解かと問われれば大抵の場合NOだ。何故ならその決断とは別の決断、判断というものが存在する。互いに相容れないために衝突しあう場面を目にすることが多い。

それ自体は自然なことだが、脇で見ていると相手の論調を理解する以前に拒絶し、要素ごとに分解して議論を闘わせ、その結論として合弁に入るというにはほど遠い有様ばかりだ。人それぞれとしてはなから受け付けないことで独善的になる者、相対する全ての異論にサーチ・アンド・デストロイを繰り返す者、いずれも度しがたい。

本来それは戦うべきことなのか?相手の意見は本当に自分が理解したものと一致しているのか?仮に異論であるとして相手の考えを否定して得るものがあるのか?自分が判断を決した根拠は本当に全て正しいのか?

考えるべき事行うべき事はいくらでもある。一旦判断を決したからと言ってそれに考え無しに殉じるというのは怠惰の極みだ。自分はそう思う。

自分の立ち位置を疑うことを敗北主義として忌む観点も分らなくはない。だが、少し考えれば矛盾すると分る点であっても一旦決した判断に乗り続けるのは勇猛果敢ではなく、思考の放棄に他ならない。

孫子のあり方

別に孫子は結論づけるななどとは主張していない。上記はあくまで小生の私見であり、判断のスタンスに過ぎない。

ただ、それでも孫子の教えは馴染む。目の前の戦いに殉じ、こうあるべきと制圧するのが最適で最短で最善か?断じて違う!それでは単に遺恨を残すだけだ。

自分も議論となれば、短期的に相手のよりどころとする論拠を一つ一つ排撃することを戦術的に選びがちだ。しかし、その手法が議論の姿を模倣した別の何かではないか?唐突にそういう思いが差し込んできて「ハッ」とすることが増えた。

果たして相手は本当にそんなことを主張しているのだろうか?相手が本当に伝えたい思いは別のところにあるのではないか?

確かにテキストに起こした内容を読み返せばこう理解するしかない、発言した内容を何度見聞きしてもこう解釈するしかない…という一定の結論の付け方はある。でも、それがもし言葉足らずだったらどうか?表現能力、時間、切り出し方によっていくらでもその断面は偏ってしまう。本当はどう思っていたのか、こういうことではないのか、という形で手を差し伸べれば出てくる言葉は変わるのかも知れない。

非常に迂遠で手間がかかる話だ。「そんなことやってられるか?!」というのも分る。自分もそう思うが、その一手間二手間の遠回りが実は最短なのではないか?「迂直の計」は別に敵を害するためだけの戦術ではなく、物事を正しく見るための手法としても解釈できるのではないだろうか?

「百戦百勝は善の善なるものにあらず」も同じだ。勝敗という分りやすい結果が大事なのではなく、そもそも本質的な勝ちとは何かを考えてみる。全体がより良くなれば良いのだ。Win-winである。嫌な横文字表現だけど、関係する者全てに利がある結論を諦めるのを急がなくても良いだろう。

終わりに

我田引水という言葉がある。自分が言いたいこと、主張したいことに全てを引きつけて都合良く使ってしまう強引さを示した言葉だ。

今回の所感は、まさにそういう身勝手な引きつけ方をしたものだけれど、たまには持論を語ってみたいので良いように使わせて貰った。いつも持論だらけじゃないか…というツッコミは甘んじて受けるが、これでもまだ言い足りてはいない。

世の中というのは分断化の一途を辿っているようにしか見えない。自分はその流れには蟷螂の斧であっても反逆的でありたい。気を抜けばすぐに迎合してしまいそうになるが、これと決めた物が「本当か?それでいいのか?」と疑う余地は持ち続けたいし、相手を化け物や悪者にしてしまう安易さを極力削り捨てていきたい。そう思っている。