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縮む現実膨張の夢、だからこそ身の丈の現実を作ろう!

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こんにちは、DACです。

今回は、身の丈の現実とはどういうことかについてです。

少子化日本の色々

少子化問題というのはよく話題に挙がりますが、それがどう問題かについてはあまり共有されていない気がします。受け手側が実感しにくい。曰く産業が弱くなる、曰くだから子どもをもっと産まないと駄目だ。

「だから…と言われてもなあ」と子育て世代、或いは結婚適齢期の世代は思う。今の日本が結婚して子どもを産んで育てるのに適しているかと言われれば「YES!Exactory!」と即座に断言できるかと言えば残念ながら違う。この先自分一人が生きていくのも不安を感じるような経済状況や世情であれば、二人、三人と支えていける訳もないと思うのも道理だ。

付け加えて言えば、理想の親子関係、家族のあり方についても疑問も表出している。ようやく家庭内虐待(性的な物を含む)やネグレクトについて問題視されるようになった。焦点があてられることで唐突に今生まれたように見えるが、過去にもきっと多くあった。例えば、毒親である。家庭という形式を取りながら行われる過酷を通して育てば、そもそも異性、結婚、家庭といった概念が既存で常識とされた物とは別になっていく。

歳を取ったら取ったで大変だ。誰も面倒を見れないし、みたくない。介護施設に運良く滑り込んだとしてもそれが本当に運が良かったかどうかも分からない。介護士が何らかの虐待、時に死に至る何かをしてもそれを訴えるっことも出来ずただ苦しむことになることもある。

一生懸命、それは特殊なことだと考えようとしても、社会の仕組みがそう綺麗なものでないのは誰だって知っている。元々そうだったのか今いきなりそうなったのかは大事では無い。少なくとも今はそうなのだ。今を生きている以上、経緯は解決の手立てになれば良しというもので終わって固定している物なら手出しが出来ない。

縮む現実膨張の夢

今日の毎日新聞東京朝刊の「風知草縮む現実、膨張の夢」を読んだ。


「日本は2020年ごろから生産年齢人口の大幅な減少が続く。その落ち込みを女性や高齢者、外国人労働者でカバーするといっても限界があります」

「他の先進国は生産年齢人口が減少しないか、減ってもわずかだから、経済は拡大し続ける。この間、日本の国際競争力は急速に低下していきます」

「日本だけ減るのは、1950年以降、日本が大規模な産児制限(主として人工妊娠中絶容認)をやったから。この背景と流れが理解されていない」

「太平洋戦争当時、政府は『産めよ殖やせよ』『婦人も働け』と国民を駆り立てた。今も似ています。がんばれば何とかなる--という精神論的集団行動。それでは国際競争には勝てないということを、敗戦を通じ、身にしみて学んだはずなんですが……」
「人口減少経済」研究の権威、松谷(まつたに)明彦・政策研究大学院大名誉教授(71)=マクロ経済学=のの言葉である。早々に殴られた感じだが、これも薄々とは誰も感じていたことだろう。

縮む現実

日本が産児制限をしたという認識は持っていなかった。1950年以降と言えば第二次ベビーブーム(1971年-1974年)があったからだ。ただ、言われて見れば納得もする。所謂団塊の世代、第一次ベビーブームは1947年から1949年でここを境にガクンと出生数は落ちている。Wikipediaのグラフを引用しましょう。

日本の出生数と出生率1900-2010.jpg
By Mc681 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

要は突出して人口の多い団塊の世代が子どもを生むあたりで比例的に増えているだけで、それも全く第一次には及ばず減っている。右肩下がりなんて生やさしいものではなくて崖から転がり落ちるというのが相応しい絵面だ。精神論ではどうにもならないし、今すぐどうにかせねばで女性や高齢者、外国人労働者でカバーすると付け焼き刃でどうこうなるかと言えばどうにもならないのは当然だろう。

膨張の夢

今の日本があるべきかどうかと言えば否だろう。だけど、「せめて今より酷くなって欲しくない。今を最低限としたい」と思う人が多いだろう。

政治家の主流にせよ経営者の主流にせよ、およそ団塊の世代周辺の人数が多い世代が握っている。ある程度は第二次ベビーブームの世代も入り込んでいる。しかし、その世代の頭の中は我が世の春だった時代の再現がまだある、これからは取り戻さねばという思考回路で動いている。だから、膨張を夢見る。過去の成功体験を真似て追随するか、思いつきをこわごわと実行しようとするだけだ。

身の丈の現実を作ろう

本来であれば、人数が少ない世代への権限委譲があるべきだろう。これからを生きていくのはその世代であって、今後終わっていく世代ではない。長寿化を後進している昨今60、70でも終わりでは無いということにしようとしているが、彼らがいくら頑張っても子どもを産むことは難しい。

翻って若手に目を向ければ、先に書いたとおりだ。直面している現実はとにかく厳しい。あまりに厳しいけど自分一人生きていくだけなら何とかなる…という観点で日々楽しく生きられればと自由人になる人も珍しくない。これも当然だ。これまで積み重ねられてきた負の遺産は無いものとされ膨張する夢を糊塗されて「これがあるべきだ」と言われれば馬鹿馬鹿しくてやってられない。

とはいえ、その先はどうかといえばどん詰まりであることには変わらない。無責任なことを今やっている人達は自分の尻を拭うことは決してしない。上の世代が一億層懺悔と言って責任回避したように、責任を放り投げるのだ。「俺は悪くない。世の中が悪いのだ。」と言うことを明に暗に言うだけで決して何もせず、そのうち騒ぐだけ騒いで蝉のように死んでいく。

風知草では山田孝男氏は大胆な論を展開するも「そうはいってもな」という部分を自分で認めている。この問いは一人一人が受け止めるもので委託して解答を待つでは決して終わらない。茹でガエルで終わるというのも解ではあるが、それはあまりに悲惨だなと思う。

残された者、残されるであろう者がその負債を背負うしかない。身の丈の現実を見てそこに希望と幸せを自ら生み出していきたい。

引用に加えて題名まで盗むのは盗っ人猛々しいの誹りは免れないだろうけれど、自分はあえて「だからこそ身の丈の現実を作ろう」を加えた。山田氏の思いもそこにあるのではないだろうか?