ぐだぐだわーくす

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見出ししか見ない読者という一般論はある程度成り立つのだけれど…

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こんにちは、DACです。

今回は見出し(タイトル)偏重論にまつまるお話しです。

元ネタ

独身税 見出し独り歩き? ネットで炎上 毎日新聞2017年9月7日Web記事

概要

  • 「石川県かほく市が「独身税」を提案?」という見出しの北国新聞8月30日朝刊の記事が炎上した
  • 「ママ課」は市の正式の課ではないし、「ママ課」のメンバーと財務省主計官の意見交換会での「質問の一つ」であり「提案」ではなく、妥当な見出しでは無かった
  • Twitterで拡散され、批判の嵐が巻き起こる。Web上だけでなく、電話やメールの抗議が市に殺到した
  • 9月1日に市は、市や「ママ課」は「独身税」を提案していない、との声明を公式ホームページに掲載したが騒動が大きくなり、夜に削除
  • 9月2日に北国新聞が朝刊に市の声明と同内容を掲載し、訂正で幕引きを図ったが「提案」と書いて誤読を誘発したのではという毎日の取材には応じなかった。

所感

  • 見出し「石川県かほく市が「独身税」を提案?」
  • 本文「結婚し子を育てると生活水準が下がる。独身者に負担をお願いできないか」と質問し、主計官が「独身税の議論はあるが、進んでいない」と述べた

「独身税」という言葉自体質問の中には無かった。確かに質問の趣旨は生活水準の低下分を独身者に何かしらの負担をしてもらい楽になりたいというもので、そこから連想される独身税を持ち出して解答をした経緯はある。これだけでも、独身者としては「とんでもない話だ!」「そんな趣旨の話題を持ち出すこと自体けしからん!」となると思う。

しかし、ママ課のメンバー「出来るかどうか」の質問に対し市の主計官が「進んでないし、ちょっと無理だねえ」的なやりとりがあったことが、「市が提案?」になるのは不適切だ。ママ課の一人(一般人参考人)の要望を含めた質問=市の提案というのはかなり違う。

まあ、北国新聞もそこは自覚があったのではと憶測出来なくも無い。「?」を免罪符に付けるのはスポーツ新聞などでよく見かける。これさえあれば、「そう感じただけで実は違ったかも、テヘッ」というのが利きそうな魔法の記号だ。もっとも今回のように炎上した後だと「テヘッ」では済まなそうなのでその手は使えなかったようだけど…。

Webで常識となっている見出し偏重主義

ブログ運営で鉄則中の鉄則とされることの一つが見出し(タイトル)は最重要ということだ。潜在読者が記事を読むかどうか、最初にふるいをかけるのが見出しだからだ。

Webコンテンツの流入元というのは、Googleを代用とする検索エンジンやTwitter、FacebookなどのSNS、オマケではてなブックマークなどのSBMといったところ。これらでもっとも大きく表示されるのが見出しとなる。加えてアイキャッチ画像、リード文相当のDescription要素だが、何がともあれ見出しである。

ここで「おっ!?」とクリックするような見出しでなければ、その本文が読まれることは少ない。逆に「何これ?気になる!」となるような見出しであればクリックされまくりとりあえずはPVに繋がる。離脱率や離脱位置を気にしない雑なブロガーが多いし、まずは見て貰わないとスタートラインにも立てないので猫も杓子も見出しに血道をあげる。

それが過激化すると羊頭狗肉で見出しだけ目立つけど中身はサッパリだったり、そこまでいかなくとも今回のように中身と正確に一致しない見出しになるという事例も珍しくない。むしろ前のめりに釣れる「釣りタイトル」「釣れるアイキャッチ」を量産するところばかりになっている。

見出ししか見せないような仕組み

Webには大量のコンテンツがある。そして日々大量に追加されていく。数えていけば有限もものだけれど、人が直接処理できる量ではない。そんなことはWWWが始まった当初から分っていた。とにかく馬鹿みたいに巨大な空間があってそこを自由に使って共有して下さいというから、使い始めてみた物の交通整理しないと読む方が困る。

そこで出てきたのがディレクトリ型の集約サイトで、それも追いつかなくなるとGoogleのような自動収集型検索サイトとなったが、そこは措く。いずれにせよ、本文を丸々載せるわけにいかないから、その内容を端的に示す物としての見出しをリスト的に表示するのは必然的な流れだった。

そもそもHTML自体が構造的にHead要素の中のTitle要素を最上位で必須として設計されているのだから、これは集約サイトが考える以前に仕組みからしてそういうものにならざるを得ない。

既存の仕組みにも合致していた

別にWWW自体いまだ生まれて大して時間を経た物では無い。それ以前から見だしというものはそういう使われ方をしてきた。

例えば、本である。最近は本屋自体衰退しつつあるけれど、本屋での本の陳列は基本的に棚に縦に刺してある。そこで見えるのは本のタイトルでこれを見て客は本に手を付けるかどうかを判断する。少し慣れた読み手であればその場で見だしと冒頭のリード相当に目を通す。だけど、一番に目を通すのがタイトルであることには変わりない。

新聞や雑誌も同じだ。新聞などは特に分りやすい。紙面の中でよりニュースバリューがあると新聞社が考えているものほど一面の表面に置くし、その見出しも目立つように段数を多く取る物ほど大事と見做されている。見た目の目立ちをいじれるからだけれど、見出しの表現も単なる本文の縮約では無く、とにかく中身を引き立て読んで貰うための刺激に満ちた物になる。

とはいえ、本当に読み手は見出ししか見ないのか?

毎日記事中は以下のようにしめられている。


ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に詳しいジャーナリストの津田大介さんは「米国の調査で、記事リンクをSNSでシェアする人の6割は中身を読んでいない、と分かっているように、見出しが独り歩きした典型事例だ」と見る。「週刊誌の中づり広告を話題にする前に記事内容を確認する人が少ないのと同じだが、SNS時代にはリツイートで何千人、何万人に影響する。今回は市や新聞がネット炎上に慣れていなかった」と分析。メディアは見出しが独り歩きするリスクを考えるべきだと強調する。
この指摘は状況はもっと酷い状況だと示している。記事本文を読ませる意図で作った見出しであっても、その見出しだけで満足して中身を読まず理解したつもりになる読者が過半数だということだ。

しかし、見出しだけで誤認していると決めつけてよいのかは疑問だ。今回の事件?について言えば、そもそも「ママ課の質問が不適当だ」「独身税なるものを検討していること自体不愉快だ」「氏が提案しているかどうかなんか関係ない。そういう発想自体揺るすべからざる物だ」「タイトルが本文と不一致でタイトルに釣られた訳では無い。

中身を読んだ上で不快だから炎上したんだ。読者を馬鹿にすんな!」という話かもしれない。

そう考えた場合毎日の記事自体が見だしや本文が「読者は見出ししか読まないからそれに会わせた対策をせねば」とミスリードし「読者の実態を不要に貶めている」のでは無いかという立ち位置も成り立つだろう。

どちらが正しいかの是非はこの際どうでも良い。正しさがどうのでは無く立ち位置の差を認識していないこと、それを容認しない狭量さが大に小に蔓延していて独善のぶつけっぱなしを良しとしているのではと自分は疑っている。

いずれにせよ会話不足、接点不足

ブログによる共有にしても、テレビ、新聞、雑誌などのメディアによる拡散にしろどうしても発信者を起点に不特定多数への拡散の構図になる。そのための手段だからだ。

しかし、その構造上受け手は受け手なりの判断や所感をどう返すかという部分はいまだ未熟な状態なのではないか?一対一の会話、或いは数人程度の対話であれば相手の意図を確認しながら進めることが出来る。大量拡散形式ではどうしても会話や直接の接点を持つことが難しい。受け手は色々な解釈をするし、発信元がそれらを一つ一つ理解しながら受け答えするのは非現実的なほど非対称だからだ。

結果的に一方通行となる。一方通行になれば、個々の所感特に憤りのような負の反応は炎上という形を取って発信元に返っていく。一人一人であればまだ相互理解が可能であっても集団意思となれば御しがたい衝動、現象のような物になってしまう。

拡散構造の徒花と言って諦められるなら良いのだけれど、どうにもモヤモヤする物を感じる。見出ししか見ない読者という一般論はある程度成り立つのだけれど、事はもっと根本的で手の付けられないところに起因があるように思えてならない。